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WFF10周年記念
フィリピンスタディーツアー

PSHF (フィリピン自立援助基金)
現地訪問旅行記


(2001年4月9日〜15日)

 

目次
・はじめに(ツアー参加メンバーの紹介)浅尾治子
・フィリピン諸島略図  
・スタディーツアー日程表  
・PSHFの紹介 田中公子
・ネグロス島にて(第1日目、2日目)浅尾治子
・ボホール島にて (第3日目、4日目)浅尾省五
・オランゴ島にて(第4日目、5日目)鈴木やよい
・セブ島にて(第5日目、6日目)田中公子
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★ フィリピン諸島略図   (赤印が今回訪問した場所です)

★ フィリピンスタディーツアー日程表

年月日 曜日 出発時刻 出発地 便名 到着時刻 到着地 HOTEL 行動 備考
2001/4/9 9:30 成田 PR431 12:45 マニラ     成田第2ターミナル Arrow Tour カウンター
    15:00 マニラ PR135 16:10 ネグロス島 バコロド コンベンションホテル   バコロドでリチャードさんバニーさんと会う
2001/4/10           コンベンションホテル ネグロスプロジェクト視察 リチャードさんバーニーさんと同行
2001/4/11 7:05 バコロド 飛行機 7:30 セブ     ジョイさんセブ空港へ出迎え、港まで同行
    9:30 セブ オーシャンジェット 11:45 ボボール トロピカルホテル PSHF新事務所訪問 ボホールプロジェクト視察 ネリアさんと同行、着後まずホテルへ 午後バンをチャーター 観光チョコレートヒル・ターシャ
2001/4/12 10:00頃 ボボール スーパーキャット   セブ     ジョイさんセブ空港へ出迎え、オランゴ島同行 途中食料等購入
      セブ ボート   オランゴ島 PSHFコミュニティーセンター オランゴ島 プロジェクト視察 オランゴ島観光鳥の楽園
2001/4/13   オランゴ島 ボート   セブ セブグランドホテル 午後セブプロジェクト視察 栗林さんの飛行機に間に合うようにセブへ戻る 栗林さん11:45セブ発→マニラへ
2001/4/14           セブグランドホテル セブプロジェクト視察 午前中ジョイさんと 午後フリー
2001/4/15 11:45 セブ PR854 12:55 マニラ     空港まではホテルでタクシーを頼むこと
    14:45 マニラ PR432 19:55 成田     栗林さんと合流

 

★ はじめに   浅尾治子

「スタディーツアーに行きたいね」と言い出したのはたぶん8年も前のことだったと思います。「フィリピンはどうかしら?」「そうね、行きましょう」と言ってから5年余り、WFF活動10年目にしてやっと実現に漕ぎ着けました。
「ツアーに行こう」と決めたのは今年に入ってから。2月にはコンサートがあるし、4月の7日はお花見バザー。メチャクチャに忙しいこんな時を選ばなくともと思いつつ、PSHFの主催者であるリチャード・フォスター氏に電話を入れました。
偶然にもフォスター氏は3月の末から4月の初めにかけてフィリピンへ行かれるとのこと。ご一緒いただければどんなに心強いことでしょう。でも私達が出発できるのはどんなに早くても4月8日、バザーの次の日です。WFFが支援しているプロジェクトを中心に視察できるよう、約1週間の日程を組んでいただくようお願いしました。

2月21日、フォスター氏と今回のツアーについての初めての打合せ会を持ちました。当初の予定は4月8日夜出発、マニラに1泊、ネグロス島、ボホール島、セブ島、オランゴ島を廻ってマニラに1泊して帰国。観光の時間のゆとりもあって、バザーの翌日発ということを除けば素晴らしいスケジュール。フォスター氏は、私達のためにご自身の旅行日程を少し延ばして下さるとか。感謝です。航空券やホテル等は全てPSHFで手配してくださるとのこと。電気は?お水は?お土産は?ホテル等でのチップの習慣は?フォスター氏を質問ぜめにして現地の状況を想像します。ツアー実現へ向けてやっと進んだ第1歩でした。

コンサートも大盛況に終わり、バザーの準備真っ最中の3月21日、ツアー参加メンバーが全員集まってフォスター氏を囲み最後の打合せをし、日程の変更についての説明を受けました。出発日は4月9日の早朝。突然の日程変更は、フィリピンがキリスト教(カトリック)信仰者の多い国で、4月15日がイースター(復活祭)にあたり、その前の1週間はホーリーウィーク(受難週)といって、イエスキリストが十字架にかかって亡くなられた日等キリスト教の儀式の多い週となっているためのようでした。
参加者側は、大忙しのお花見バザーの翌日を家でゆっくりと過ごせることになったことがうれしくて、この日程の変更は大歓迎。スケジュール表を作り、PSHFの資料などをコピーし、フィリピンでの再会を楽しみにフォスター氏とはお別れです。私達の出発まであと19日。何をどう準備したらいいのやら...。

・ツアー参加メンバー紹介
今回ツアーに参加したメンバーは合計5名。WFFの会員で、ILCAのボランティア活動にも度々参加してくださっている栗林尚子さんと鈴木やよいさん。ILCAの製品カタログの写真やホームページの製作など、事務局のIT化のためにボランティア参加をしてくださっている浅尾省五氏。そしてWFF設立当初からの理事である田中公子さんと私、浅尾治子。急な旅行予定、全く自費の旅行にもかかわらずご参加いただき、楽しい旅行になりました。ありがとうございました。


★ PSHFの紹介  田中公子

・PSHF ( Philippine Self-Help Foundation = フィリピン自立援助基金 )とは?

PSHFは1987年に、英国人のリチャード・フォスター氏(鎌倉在住)によりネグロス島で始まりました。飢饉で多くの人々が栄養失調で亡くなるのを目の当たりにして、単に物をあげれば済む問題ではないことに気がついたのです。 主な活動はフィリピンで貧困にあえぐ家庭にローンを提供することです。この10年間で、500以上の家庭や共同体にローン、助成金、医療援助の支援をしてきました。典型的な受益家族の一日の収入は500円で、生活もままならない状況です。自分たちでやっていくことを奨励しているので、ローンは小さな事業を始める初期投資として用いられ、利益の中から返済されます。

・PSHFのしくみは?

ほとんどのスポンサーは日本や先進国の個人です。寄付の金額にふさわしいプロジェクトを、時には何ヶ月もかけて探します。ひとたびお金が家庭に手渡されると、PSHFの中で口座が開かれ、スポンサーにはお金の使用明細書、その家庭状況と提案している事業についてのレポート、家族の写真が送られます。典型的なローンの規模は2万円(約$160)ですが、この金額は彼らにはとても多額なお金です。少額の寄付金は時には医療費のような助成金にあてられます。

・お金の使われ方は?

ローンの典型的な期間は1年間です。返済金は寄付する人の口座に戻されます。口座の金額が充分になると、そのお金は次のプロジェクトに使われます。新しい事業の明細は寄付して下さる方のもとへ送られます。年に1回、スポンサーにはお金の使途の明細書が届きます。 時には、ローンではなく助成金がおくられます。手術や医薬品をまかなえないために、急を要する医療も受けられないことがよくあるからです。また非常に貧しい村では開発の初期段階では助成金のほうが効果的なのです。

・フィリピンでは?

現地事務所はネグロス島に2ヶ所、セブ島に1ヶ所あります。フルタイムのコーディネーターとしてバニー・カンバイさんがネグロス・バコロド、ジョイ・ミノー・デ・レオンさんがセブ島でそれぞれ自宅兼用オフィスで働いています。日本側の運営スタッフは皆ボランティアです。バーニーとジョイはプロジェクトの提案書を日本に送り、承認を得るとプロジェクトを実施します。2000年初期にネグロス島で500件目、1994年に開始したセブ島で200件目、ネグロス・オリエンタルで100件目のプロジェクトに着手しています。2000年度の報告による新規プロジェクト116件、平均融資額240ドル、融資返済収入により必要経費の35.5%を調達できているようです。 

・WFFとのかかわりは?

WFFでは、1991年の開始から毎年10万円から20万円、98年はお花見バザーの支援対象にもなり、この10年間で総額2,345,500円を送金しています。PSFHからの2000年度報告によると、現在9プロジェクトに融資され、返済が進んでいる状況がわかります。95年からの支援先は15グループで、内容は共同仕入れ、パン屋さんのオーブンの購入、種や肥料の購入、織物用マニラ麻の購入、魚屋の商売拡大、梱包材のビジネスと実に様々です。グループに融資される場合はそれぞれが商売をすることもあり、ますます多彩になります。記録によると必ずしも返済はうまくいかず「使い込み」「掛売りの失敗」などが起きていますが、多くの家族はこつこつと返済し、リローン(再融資)をしているグループもあります。 WFFでは、返済金を放棄してPSHFの必要とする緊急医療費や助成金、事務所経費に使っていただくようにしています。 (資料より抜粋)

★ ネグロス島にて   浅尾治子

・(第1日目)

集合は成田、午前7時30分。おとといのお花見バザーの疲れをひきずって、眠い目をこすりつつ成田へ。荷物は私にしては画期的に少なく、いつもなら手荷物にするようなバッグが1つと大きめのトートバッグが1つ。この中に現地の方々へのお土産や、旅行用のやかんも入っているのです。皆の中で一番荷物が少ないのではと思っていましたが、皆に会ってその身軽な装いにびっくり。そして元気なのにさらにびっくり。これからの1週間、私がお荷物にならないようにと気を引き締めていよいよ出発です。

マニラまではたったの4時間余り。マニラから国内線に乗り換えてネグロス島バコロド市へ。バコロドに着いたのは午後4時でした。マニラ空港はガラス張りのとても広々としたモダンな空港でしたが、バコロドの空港は屋根と柵があるだけ。柵の向こう側には乗客を出迎えるたくさんの人々が見えます。バコロド市はあまり大きくはない地方都市なのだと想像できました。

フォスターさんは、バコロドにあるPSHF事務所のバーニーさんと共に私達を出迎えてくれました。PSHFは現在4ヶ所の事務所がありますが、13年前、フォスターさんが初めてフィリピンの家庭への自立目的の融資を行ったのはネグロス島で、また、最初に事務所を開いたのはこのバコロドでした。バーニーさんは、小柄で落ち着いた感じの女性で、10年以上もフォスターさんの活動を助け、支援プロジェクトの提案から実施、返済管理など、事務所のほとんどの仕事をされています。バコロド事務所にはバーニーさんの他に、フィールドワーク(支援先の訪問とローン返済金の回収等)を主にされているミラさんと、パートタイムでコンピューターの事務をされているシェリーさんという2人の女性が働いています。バコロドの事務所では現在100を超える小口融資を行っているということでしたが、私達は小口という意味がその時はまだ全く分かってはいなかったのす。

バコロドで滞在したホテルは、古いホテルのようでしたが立派なホテルでした。天井が高く、大理石の床、屋外プールもあり、部屋もゆったり。1部屋1泊2000円とは信じられません。それぞれのお金をペソに換金したいのですが、この1週間の滞在中いったいいくらいるのか、物価も全くわかりません。結局、全員が多く換金しすぎてしまい、帰国後フォスターさんに円に戻してもらいました。ちなみにこの日のレートは1ペソ2.6円でした。 ここでネグロス島について少し説明をしておきたいと思います。

フィリピンは7000を超える島々が集まっている国です。大きな島では、マニラのあるルソン島、ミンダナオ島等、セブ島やパラワン島等はダイビングや観光地として有名です。ネグロス島は面積では4番目(12705km2)、人口は約317万人。オリエンタル(東ネグロス)、オシデンタル(西ネグロス)という2つの州からなり、バコロド市はオシデンタルの州都です。この旅行の為に購入したガイドブックによると、「ネグロス島は砂糖産業が盛んな地で、オシデンタルでは人口(約224万人)の70%以上が砂糖関連の仕事で生計をなしている」とのこと。ILCAでもマスコバド糖というネグロス産の黒砂糖を販売していますので、ご存じの方もいらっしゃると思います。

ネグロス島がさとうきびを栽培するようになったのは、アメリカの植民地時代、フィリピンの主な島々にそれぞれ作るべき作物を決めてしまったからだそうで、ネグロス島はその時、砂糖を産業とし、輸出する島と決められ、島民の食べる穀物等を作っていた農地のほとんどがさとうきび栽培へと移行させられました。その後、砂糖産業全体の衰退が起こり、島民の貧困が世界的に報道され、救援が叫ばれてきました。私のガイドブックには「ネグロス島は飢餓の島として問題化された時代があった」、「慢性的な貧困に悩む人々がいる」と書いてあります。ガイドブックにですよ。驚きです。このツアーに参加するまでの私のネグロス島のイメージはまさにこの通り、砂糖と貧困の島でした。

第1日目の夜は、フォスターさん、バーニーさん、ミラさんと私達5人で市内のレストランで食事です。車で向かう途中、PSHFの事務所に立ち寄りミラさんをピックアップ。事務所には机とコンピューター、雑然としている様子は我がWFFの事務所と変わりません。ミラさんは明るい、20代半ば位の感じ。でもフィリピンの女性は若く見えるから...。バーニーさんとミラさんは1週間の殆どをここに寝泊まりしていると聞いています。メゾネットの2階が寝室になっているようでした。

夜道は暗い。でもシェーキーズのピザ屋さんやハンバーガー屋さんもあって、ネグロス島で一番大きな市というのは納得。昼間は暑いので夜になると人出が多くなるのだそうで、薄暗い夜道には思ったより人が歩いていました。その夜のレストランは、暗い町に突然出現したモダンなレストランという印象で、私の抱いていたネグロス島のイメージには疑問符がひとつ点りました。情報不足の中で、1つのイメージで物事を見てはいけませんね。食事はとても美味しくて、皆大満足でした。 明日は午前8時45分集合。バコロド市から車で3時間余のところにあるサベ村へ支援プロジェクトの視察にでかけます。明日は1日中ドライブということになりそうです。 

・(第2日目)

朝、カーテンを開けるともう太陽の強い日差しが入ってきます。今日は1日中暑そうです。日焼け止めクリームを厚塗りして、長袖のTシャツに帽子、念のために虫除けスプレーをつけて、さあ出発です。フォスターさん、バーニーさん、ミラさん、私達5人、ドライバーとドライバーのアシスタントとしてお友達が1人。計10人が1台のミニバンに乗り込みました。ミニバンはクーラーが付いていたので正直ホッとしました。

町中を抜けて海岸線を走ってみると、海のきれいなセブ島の隣にある島なのですが、バコロド市はセブ島の反対側に位置するためか海の色は緑色で、きれいな海というわけにはいきません。セブのように海で観光客を呼ぶというのは無理なのだとよく分かります。リチャードさんが沖の島を指さして、「ほら、あれがバーニーの故郷だよ」と教えてくれました。「バーニーは、フィリピンではとても珍しい1人っ子なんだ。フィリピン人は子供がたくさんいるからね。」6、7人は当たり前のようです。ちなみにミラさんは5人兄弟、でも一番上のお兄さんはミラさんが小学校を卒業する頃に亡くなられたそうです。死亡率も高いのです。

車の外にはさとうきび畑が延々と続いています。訪問先のサベ村はバコロド市から海岸線に沿って東に2時間程、さらに内陸に1時間余りドライブした場所にある小さな田舎の村です。今日訪問するのは、PSHFにローンを申請している3家族です。訪問にあたり、バーニーさんが申請内容をまとめて資料として配布して下さいました。WFFの会議では見慣れたフォーマットです。申請者の家庭のこと、申請するに至った背景など、いつも申請者の側に立って丁寧にまとめられています。PSHFはこの申請書1枚1枚を支援者に送り、1つ1つの融資を依頼していくという、両者の密接なつながりを大切にした細やかな支援を行っているのです。

時計は12時をまわり、今日のお昼はビスケットと各自お水が1本。道が悪いのと暑いので少々疲れが出てきた頃、やっとサベ村に到着です。最初の訪問先は「ジュンジュンさん」。申請書にニックネームは「ジュンジュン」と書いてあったので、会う前からすっかり旧知のよう。家畜として飼っているヤギのために囲いを作る費用5000ペソのローンを申請しています。ところが、村に着いてからこのジュンジュンさんの家へ着くまでが大変だったのです。村の中心の広場でジュンジュンさんとジュンジュンさんのお父さんらしき人を車でピックアップ。途中から道はさらに悪くなり、ぬかるんで車ではとても無理となり、車を降りて歩きです。表は凄い暑さ。ミラさんは大きな雨傘をさして日除けにしています。グチャグチャになった道を滑らないように気をつけながら数十分歩いたでしょうか、やっとジュンジュンさんの家へ着きました。

家ではお母さん、お姉さん達が迎えてくれました。家は高床式で、屋根、壁とも素材は葉を編んだものでできています。一部トタンも使われていましたが、後ろの部分は屋根も壁も崩れて大きな穴が開いています。隣家も無いこの土地で台風でも来たらどうするのでしょう?家の下には鶏が走り、脇の木には豚やヤギがつながれていました。ジュンジュンさんの申請は今回が2度目、前回もヤギの囲いのためのローン申請だったのですが、そのお金で豚を買ってしまったのだそうです。借りたお金が申請内容通りに使われないケースは少なくないということです。バーニーさんの報告では前回のローンは返済されており、今回の申請も通りそうです。でも、ヤギの囲いより家の修理のほうが先では?と感じたのはたぶん私1人ではなかったと思います。ジュンジュンさんの家族は、暑さでクラクラしている私達を気遣って、わざわざココナッツの木に登り、実をいくつも採ってジュースをごちそうしてくれました。皆とてもなごやかな気持ちになりました。

グチャグチャの道を再び戻り、2件目のお宅へ。2件目は若いご夫婦、小さな子供と赤ちゃんがいました。稲作のためのローン5000ペソの申請です。小さくてもこぎれいな感じの家で、夫婦ともしっかりとした印象を受けました。3件目は未亡人の女性で、自宅を建て替えるためのローンの申請です。新しい家は既に工事に入っており、柱と壁の一部ができていました。木と草でできた質素なものなのですが、他の家と比べると立派に見えてしまいます。このローンが受けられないと家が建ち上がらないのだそうです。

PSHFのローンは原則として1年間。毎月12分の1ずつ返済して最後に借入金の1割を利子として払います。現在バコロド事務所で扱うローン数は100件以上。事務所まで返済金を持ってくる人もいますが、その他は1ヶ月に1度こうして訪れ、集金をしながらその地域の生活状況を視察している訳です。この村にもミラさんは毎月バスで3時間以上かけて通って来ているというのですから大変です。 私達がサベ村を出たのは午後3時半過ぎでした。

途中、リチャードさんが「ミランダへ寄りたいと思うが...。」と提案しました。「ミランダ」というのは、バコロド市近郊の地区で、WFFでも過去に2度グループとして支援しています。是非訪れてみたいと思いました。

「ミランダ」に着いたときはもう辺りは真っ暗。薄暗い灯りの中でまず訪れたのは縫製工場でした。小さな町工場の中では数人の女性がミシンを踏んでいます。このミシンはPSHFのローンで購入したものだということです。向い側のサリサリショップと呼ばれる間口1間ほどの雑貨屋もローンを受けています。表にはPSHF寄贈の文字の入った車が止まっていました。雑貨屋の脇の路地を入るとそこは更に暗く、殆ど何も見えません。その中に数件の家がありました。このあたりは本当に貧しく、PSHFではお金を貸すのではなく助成金を出している家族があるとのこと。訪れた1軒の家では、数日前に娘さんを亡くしたばかり、ローソクの灯った小さな祭壇が本当に寂しげでした。

もう1軒には母親と6人の小さな子供達が住んでいました。PSHFではこの家族の小さな家の修理に助成金を出したのだそうです。いくら利息が安くてもローンを受けることもできない貧しい人々の生活を、リチャードさんは私達に見せてくれたのだと思います。乳飲み子をかかえる母親の傍に集まる子供達。その中で、小学校2・3年生の少女が家族の夕食の準備をしています。薄暗い中で働く少女の可愛い笑顔が心に残ります。苦しくても子供はやはり恵みなのだとしみじみと感じました。

私は今までなぜPSHFの支援金はいつも少額ずつなのか不思議に思っていましたが、この旅行でその理由がはっきりと分かりました。小口の融資がどれほど人々の生活に密着しており、役立つかを見ることができたからです。小口だからこそできることがあるのだと思います。PSHFの活動は人々に身近で有効な支援を続けたいというWFFの目的にぴったりと合った活動で、私達の励みになりました。
本当に多くのことを見て、感じ、学んだ長い一日でした。

★ ボホール島にて    浅尾省五

・(第3日目)

2001年4月1日、ネグロス島のコンベンションホテルを朝5時半に起床、朝食を済ませた後、参加者4人は、空路セブ島へ。約25分の飛行で無事セブ島に到着。そこから車でオーシャンジェットターミナルまで移動し、9時30分発のセブ島発ボホール島タグビラン行きのオーシャンジェット(高速艇)の切符を1人260ペソで購入し、乗船した。フィリピンは沢山の島から成る国で海の交通機関はとても充実しているように見えた。双胴船のオーシャンジェットは200人程度の乗客を乗せ高速で航行する。座席は全席指定で快適な海の旅であったが大型テレビで映し出されるドラマの音声がうるさく少々疲れた。約2時間ほどでボホール島タグビランのジェットターミナルに到着した。下船すると外は焼けるように暑い。

ターミナルではPSHFのネリアさんとお母さん、そしてこれから視察をする為の車の運転手3人が我々の到着を待っていた。桟橋の脇にあるシーフードレストランで皆と一緒に少し早めのお昼の腹ごしらえ。安くて美味しい豊富な魚介類を充分に食べた私達は、ホテルにチェックインしたあと車でプロジェクト視察の出発だ。当初予定していたホテルはイースターホリデーで皆満杯になり、入ることが出来なくなったため急遽このホテルになった。1部屋およそ2000円ほどであったが素晴らしくいいホテルであった。

三菱の4輪駆動車に日本からの5人と、ネリアさん、そして運転手の7人が乗り込み、町中を通り抜けて郊外へ出た。ネグロス島から預かってきたパソコンのプリンターを途中で下ろし、海岸線を暫く走る。日本からの支援で出来た大きな橋の上からは川の 両岸にマングローブが鬱蒼と生えている様子がよく見えた。その先で、「ここが私の家だ」と運転手が自慢そうに教えてくれた。他の家から比べるととてもいい煉瓦造りの家に住んでいた。そのすぐ近くにネリアさんの自宅兼PSHFの事務所もあった。車を止めてネリアさんが家の中に入っていったが、すぐに出てきて「お父さんが昼寝をしているので皆さんに挨拶できない」とのこと。フィリピン全てに言えるかどうか分らないが、女性達はとても勤勉に働いているのを何処でも見たが、男達は昼寝をしていたり、ブラブラしているのを見ることが多かった。

暫くして海岸線から山道に入り、狭い道を上っていった。道の両端にはバナナの木や、椰子の木があり、沢山の椰子の実や、まだ青いバナナの実を付けていた。その周辺にある高床式の民家は、質素ではあるが暑い日差しを逃れるために大木の下や木陰に建てられており、天然のエアコンの恵みを受けて生活していた。

最初に訪れたのはフラフラプロジェクト。バナナの木で覆われた木陰の家の前で車は止まった。ネリアさんがその家の前で声を掛けたが、生憎プロジェクトの支援を受けている人は出かけており留守であった。かわいい娘さんが一人ベランダで留守番をしていた。残念ながらフラフラプロジェクトの仕事状況は見ることは出来なかったが、PSHFの支援を受けながらハワイのフラダンスの衣装を縫い、その製品を輸出して生計を立てている。色鮮やかで常夏のイメージの代表的なフラダンスの衣装を、このような人々がこのような場所で生産しているとは、想像すらしたことがなかった。

そこからもっと山奥の方に車は入り、どんな場所に連れて行かれるのかと内心心配しながら揺られていると、林の中に掘られた井戸で水くみをしている老婆が目にとまった。車はそのすぐそばに止まり、ネリアさんはその老婆にも挨拶をして、もっと林の奧まで私達を案内した。電気はなさそうで、夜になるときっと真っ暗になることと思うと、毎日の生活が大変だろうと容易に想像できた。暫く歩くと数羽の鶏たちが私たちを迎えてくれた。ネリアさんが家の前で挨拶をするも応答がない。ここもまた留守かなと思っていたら、しばらくしてにこにこした婦人が出てきた。きっと昼寝をしていたのだろう。ネリアさんに気付くと彼女は早速取り組んでいるプリマットプロジェクトを説明し、バナナの林の中に建てられた小屋で実際に現在作っている物を見せてくれた。植物繊維を編んでマットを作っているのだ。とても古そうな木造の織り機で、彼女は毎日マットを織っている。1日頑張ると2-3メートルは織れるという。こんな人達へもPSHFは支援しているのだと思うと、その素晴らしさを実感した。質素な中にその彼女の笑顔はすばらしかった。ボホール島でのプロジェクト視察はこの2件であった。

午後3時過ぎからこのボホール島で有名なチョコレートヒルと世界最小のサルと言われるターシャ(Tarsier)を見る観光をした。車は川沿いの道を島の中央部に約30分ほど走ったところで止まった。ここでターシャが見られると言うのである。川の岸辺に小さな土産物屋らしき建物があった。そこには数人の観光客が、何やらしきりに見入っている物がある。何をそんなに近くで見ているのかと思ったらターシャであった。きっと警戒心が強くて見るのも大変では、と思っていたが以外にも人に慣れていて、ターシャの世話をする少年が観光客の要望に添って木の枝に止まらせて写真を撮らせていた。私も早速カメラを取り出し、初めて見るターシャをカメラに収めた。ただの見せ物ではなく、国から許可を受けてターシャの保護活動をしている人達であった。観光客は保護活動のためのカンパのお金を募金箱に入れていく。ターシャはフィリピンでもこのボホール島以外の2-3の島でも見ることが出来るという。

そこからまた車で約1時間走った所にチョコレートヒルという所がある。フィリピンでも有名な観光地であるようだが私は全く知らなかった。ここは、台地の上に料理で使うボールをひっくり返した様な形の2-300メートルほどの高さの山というか丘が無数にあり、とても珍しい景色である。まるでチョコレートを並べた丘のようなところからこの名前が付いたのだろう。私達が訪れたときは丁度雨雲が通過するときで、雨の降っている山や、晴れている山、また太陽のスポットライトが当たっている山などが一望できてとてもきれいであった。途中の道は舗装があったり無かったり、部分的に舗装工事をしていたり、全く荒れた道だったりで道路事情もあまり良いとはいえなかった。 夕方、ジェットターミナルの近くのトロピカルホテルに帰り着き、ネリアさんと楽しい夕食の会を持った。

・(第4日目)

翌日は朝10時発のタグビラン発セブ島行きのスーパーキャット(高速艇)で、次の目的地オランゴ島への移動を開始した。どうしたことか来るときの高速艇の料金は260ペソであったのに帰りは320ペソ。私には同じように見えた高速艇もどこか違うのかも。 セブ島でジョイさんとジェットターミナルで落ち合うことになっていたが誰もいない。炎天下で約1時間ジョイさんを待つハプニングが起こった。


★ オランゴ島にて    鈴木やよい

・(第4日目)

4月12日、セブの小さな船着き場からオランゴ島へ向かう。船は屋根が付いているだけの簡単なもの。土地の人々が普段の生活で使っている渡し船で、様々な生活物資を持って乗り込んでくる。中には闘鶏用の鶏を抱えている人もいた。「オランゴ島はどんな所なのだろうか?」大きな期待と少しばかりの不安を持ってオランゴ島へ向かった。リチャードさんから事前に聞いていたのは、電気も水道もないPSHFのコミュニティーセンターに泊まること、ここではエコツアーをやっていること、そして、着いたらなるべく村の人たちと話す機会を持つこと、これだけだった。PSHFプロジェクトの家族を訪問する予定も入っていないようだったし、どういう展開になるのかまったく見当がつかなかった。

20分ほどの船旅の後、オランゴ島の土を踏む。PSHFコミュニティーセンターは砂浜に面した建物だった。到着してまず荷物を置くと、一息入れる間もなく、すぐ集まるように言われる。何がどうなっているのか分らないまま、いろいろなデモンストレーションが始まった。まず、伝統的な漁法の説明があった。身近にある材料を工夫した道具などを実際に示しながらの説明だ。次は、貝がら細工の作り方。そして、その土地でとれるカッサバを使ったケーキやドーナツを作る実演もあり、さらにはローカルミュージックのギター演奏まであった。そして最後に「これらについてどう思うか?」と意見を求められたのだが、どう答えていいのか困ってしまった。と言うのも、なぜ私たちがこのようなデモンストレーションを見ているのか理解できていなかったからだ。

後になって、私たちも村の人たちがやっているエコツアーを体験しているということが分かり、その時しっかりとした意見を言ってあげられなかったことを申し訳なく思った。

このエコツアーは、若い青年サミュエルを中心として村の人々が協力して進めているもので、オランゴ島の自然を守りながら、かつ、村人たちの生活を助けることを目的としている。この近くには、渡り鳥がたくさん集まる「鳥の楽園」と呼ばれる場所があり、私たちも夕方潮が引くのを待って出かけた。マングローブの木々の間をボートで静かに進む時はほんとうにゆったりした気持ちになった。この貴重な自然を守るため、さまざまな国際機関も協力していて、マングローブの植林プロジェクトなども行われているそうである。まだ植えたばかりと思われる小さな苗木のマングローブもあった。途中からはボートを降り、浅くなっている海をジャブジャブ歩いてさらに先へ進んだ。自分の周りをぐるっと見渡して見えるのは、マングローブの木々と海そして空だけ。あまり鳥はいなかったけれど、それでも望遠鏡をセットして何種類かの鳥を見た。シーズンになったらどんな様子だろう。この風景の中にたくさんの鳥が飛び交い、えさをついばむ光景を想像しながら、機会があったら今度は多くの鳥たちに会いたいと思った。

夜は村の人たちが用意してくれたごちそうが並んだ。電灯もなくランプの光だけの食卓だが、心のこもったものだった。夕食後にPSHFプロジェクトのTシャツをおみやげに買った。これはPSHFのローンを受けてTシャツにプリントして販売している人の商品だそうだ。この夜は、それまでの豪華ホテルから一転して、全員で1部屋しかなく、そこには簡単なベッドが2つあるだけ。残りの人は床に寝ることになった。浅尾さんは外のデッキチェアーで寝たが、かえってこちらの方が涼しかったかも知れない。シャワーはバケツの水をかぶるようになっている。結局、私たちは足を洗っただけで済ませた。もちろんエアコンもない。でも、これもまた1つの経験で結構楽しかった。

・(第5日目)

さすがに暑く、朝は汗だくで目が覚めた。もう寝ていられなくなり、散歩に出た。村の中を少し歩きながら、ここでも人々は自分たちの生活を必死に生きているのだと感じた。村のあちこちに咲いているあざやかなブーゲンビリアの花がとても印象的だった。オランゴ島の自然を守りながら進めていくエコツアーはとてもいい考えだと思うが、課題も多いようにみえる。水がないこともその1つだ。飲み水だけでなく、生活面での水も雨水に頼っているという。なんとかみんなで工夫しながら成功させて欲しいと思った。

今回はフィリピンのこともPSHFの活動もよく知らないまま出かけた旅行だった。でも、実際にプロジェクトに関わっている人たちと直接会ったことにより、PSHFの掲げているただ援助するだけでなく、その自立を助けるという考え方に対する理解が深まったように思う。リチャードさんはじめ、現地スタッフの人たちの努力にも頭の下がる思いがした。さまざまなプロジェクトを見て、旅行のメンバーと話してみて、まだまだ問題がたくさんあることを実感。個人レベルから、国の政治、経済まで、いろんな問題が絡み合っている。あまりにも問題は大きく、自分のできることはあまりにも小さい。でもその中で思ったのは、まず自分のできることから少しずつでも協力していこうということだった。

現地でお世話になったPSHFスタッフの皆さん、リチャードさん、そして旅行の準備を進めていただいたWFFの皆さん、そして一緒に旅行した楽しいメンバーの皆さんどうもありがとうございました。

★ セブ島にて    田中公子

・(第5日目)

セブ島でのプロジェクト訪問は、予定されていたのは6プロジェクトでしたが、実際には集金や様子を見に行くジョイさんに付いて行き、もっとたくさんの訪問ができました。

ジョイさんを紹介しておきます。PSHFの2つのメインオフィスのひとつのセブ島を統括しているのが、ジョイ・ミノアー・デ・レオンさんです。PSHFで働いて6年のジョイは、目が大きくて体もフィリピンの人としては大きく、元気のよい楽しい人でした。38歳のご主人は故郷のミンダナオ島の大学で教えていて、彼女は単身赴任をしていることになります。

ホテルに荷物を置いて、まずジプニー(一人4ペソ=約10円)に乗って出かけたのはRoselさんの所です。ジプニーを降りて数分歩いたところにあるのが、彼女の簡易食堂です。ところが、その日は客の少ないホーリーウィークのためか、女主人はおらず留守を預かる人と店の前に猫がいるだけでした。

次にその数件隣にある家にジョイさんは、ずんずんと入っていきました。1階の太った中年男性がTVの前で居眠りをしている横を通り抜け、いったいどうしたことかと思っていると、それが訪問予定の2軒目のAida Cruzさんの家でした。8家族で1つの家に住んでいるそうです。Cruzさんは食糧供給のプロジェクトをしているのですが、癌の兄弟のために仕事はできず、彼女もまた手術の必要な肺がんを患っているそうです。2階の彼女の居室は整っていましたが、本人は留守でした。この訪問の目的は、もし彼女の状況が悪ければ、手術のためにPSHFの医療補助のお金を使うということで、このように緊急支援の必要なケースもあることを知らしめるためでした。

しばらく街中を歩いて次の訪問(集金)へ向かいました。Cabanca夫人はグループの一員で、前に借りたお金は返し終わり現在はリローン(再借り出し)を始めたばかりの人です。彼女のプロジェクトは、セブシティの中心街の路上での果物売りです。人を掻き分けていつも彼女が台を出している所に着きましたが、そこにはパイナップルを売っている男性がいました。ジョイさんが尋ねた所、今日はお休みで明日はここで売っているはずと言うことで、また明朝訪ねることになりました。原則的にはいつ訪ねるかは事前に言っておかずに、ふいに行って実状を知るようにしているそうです。

果物売りのすぐ横の道路に出て、次の訪問地を通るジプニーを止めて乗りこみました。大きなサンミゲルビール工場を通り越しセブ市の郊外へ、輸出用の籐のバスケットなどを作っているグループを訪ねました。Medallo一家は、お腹の突き出た人のよさそうなお父さんといかにも働き者のお母さんたちが出迎えてくれました。籐製品は最近注文が少なく大変な状況にあるようでした。ジョイさんは、技術はあるけれどマーケティングの力がないので、その方面でバックアップしてくれる人がいれば良いのにと考えているようです。製品をいろいろと出してきて見せてくれるのですが、目の肥えた(?)私たちが欲しいと思うには至らず、輸出の難しさを痛感しました。

次はセブシティを通り抜けて国際空港のあるマクタン島へと、エアコンのきいたタクシーで戻りました。タクシーの定員はないようで中型車でも6人乗りができ、後部座席の1人は腰を浮かせながらのドライブです。マクタン島とセブ島を結ぶ橋を、最近日本のODAで建設したということで、その橋を渡るたびに運転手に「とても便利になって、喜んでいる」と言われると、なにかこそばゆい感じでした。

マクタン島では予定外の訪問も入れると、4軒を訪ねました。1軒目は、セブの名産品であるギターを販売するプロジェクトでローンを受けていましたが、すでにもう返却を終えて、つぎのローンを考えている一家でした。行った時には留守で、玄関はカギがかかっていたのですが、隣の家の庭のフェンスに何十枚もの子供のパンツが干してあるのを見て、皆で大笑いをしているうちに、一家(若夫婦に3人の子供)が戻ってきました。早速家の中に入れてもらい、売り物のギターや大きなソファーや扇風機や飾り物のある家の中を見せてもらいました。それまでに訪ねたどの家よりも「家庭」や「ゆとり」を感じて、この一家が経済的にも精神的にも満たされているように思え、ほっとする一時でした。

またジプニーに乗って次のGonzales一家へ向いました。ここはもっと若い夫婦で幼子2人がおり、夫は失業中で妻の始めたサリサリショップで家庭を支えなければならない状況だそうです。サリサリショップは雑貨屋で、石鹸や1回分のシャンプーや1杯分のインスタントコーヒーや駄菓子などを売る店です。店は新しく品物もたくさんぶら下げられているのですが、とにかく小さく、店の中はやっと1人が入れる広さです。また、道に面していないので、知っている人しか来ないような店構えでした。けなげにも若妻は、土間で、ボロ布をひも状にしたものを引っ掛けて作るマットの製作に一生懸命でした。色合いが良かったので、30x50センチのものを20ペソ(約50円)で購入しました。この夫婦もすでに返却は終え、リローンを考えているそうです。奧では夫が料理をしているらしく、ニンニクの香りがしてきました。

一応ここまでが予定の訪問で、Gonzales一家のそばのリーダー格の夫人の家を訪ねている内に、彼女の知り合いの所へ行くことになり、彼女と共に2台のトライシクルに分乗して移動しました。トライシクルはジプニーの走らないような田舎にしかない、オートバイの横にサイドカーの付いた乗り物です。値段は交渉制で、1人9ペソ位(20円)。体全体で風を感じられる、とても快適な乗り物でした。行った先は、貝ガラを加工した工芸的なものを製作しているおじさんのところでした。WFFの姉妹団体のILCAで手工芸品の仕入れを担当している浅尾治子さんは、貝細工のブローチが輸入できないかと、サンプル品を何点か持ち帰ることとなりました。

この日はGood Friday(受難日)で、街中では十字架のキリストの像を高く掲げた行列を何回か見かけました。ジョイさんのお誘いで、彼女のプロテスタントの教会の5時半からの集まりに参加することとなりました。教会堂を持たないので、ペンションハウス(ホテルよりは安価な宿泊所)のホールを借りて行われた礼拝は、英語の説教の前にいろいろなグループが入れ替わりで讃美歌を歌う音楽礼拝のような形でした。残念ながら英語力不足で、お話は分からなかったのですが、知っている讃美歌が何曲かあり、受苦日の雰囲気を味わえて、誘ってくれたジョイさんに感謝しました。

この後、ジョイさんと共に5つ星のセブプラザホテルと同じ敷地にある、セブ市が一望できるレストランへでかけました。ビュッフェ(食べ放題)400ペソがジョイさんには抵抗があるようでしたが、私たちにとっては約1000円の夕食はそれ程高いとも思えず、また自分たちの目で確かめて選べる利点もありそれに決め、おおいに食事を楽しみました。

・(第6日目)

予定では午前中プロジェクトを訪問し、午後はフリーでしたが、ジョイさんは、私たちのグループを放っておくと何をするか心配らしく、ショッピングの後もプロジェクト訪問となりました。 まずは、昨日会えなかった果物売りのCabanca夫人を訪ねました。ちゃんと昨日の所に娘さんとお店を出して、旬の根菜の果物(?)やスイカを切り売りしていました。ジョイさんは、人通りの激しい中で話を聞き、月の返済金を受け、受領書を書いて仕事を終えました。私たちも記念撮影をさせてもらい、次へ向かいました。

2軒目は、体を横にしなければ通れないような細い路地を何度か左折し、足元は家々から出る水でぬかるんでいる状態の中を進んでいくとたどり着きます。全員が入ると壊れてしまいそうな家だったのですが、笑顔でどうぞと言われて、靴を脱いで上がりました。そこにはたくさんのキャッサバやタピオカ、マスコバド糖を使ったフィリピンのお菓子が、ところ狭しと並んでいました。小さい息子たちも手伝って一家総出の、ショッピングセンターへ卸すお菓子作りがここのプロジェクトでした。お父さんは床に座ってケーキの整形をしています。大きな2台のオーブンと冷蔵庫にはさまれて、汗を流しながらの大変な作業です。出来立てのまだ暖かい物に、ココナッツをかけて味見をさせてもらいました。モチモチして、うす甘い素朴な味わいがしました。一番忙しいときにドカドカとたくさんの人が急に訪れたのに、ここの女主人はニコニコとやさしく迎えてくれて、辞するときには「また来てくださいね」と言われて、私の胸は熱くなりました。このような家に住み、必死に家族を養うために汗を流して働いて、なお人々にやさしさを出せることに、感激しました。

この後は、大きなショッピングモールへ行き、おみやげの買い物と昼食をとり、ジョイさんの用事が済んだら合流することになりました。大きなモールで、現地の人が家族連れやカップルでたくさん来ていました。 午後3時に再会し、最後のプロジェクト訪問前に、蝶の博物館があるということで、行ってみることになりました。そこはプライベートな博物館で、ブザーを鳴らすと係りの女の子が出てきて中に入れてくれます。たくさんの蝶のコレクションと蝶の羽根を用いた珍しい絵画を、彼女の解説付きで見ることができました。入場料は取らずに小さな募金箱が置いてあるだけでした。残念ながらシーズンではないということで、庭にはほんの数羽の蝶しか見ることができなかったのですが、蝶が卵を産みつけるいろいろな木が植えられてありました。

またジプニーに乗って最後のプロジェクトを訪ねました。ドライバー相手に屋台の食べ物屋を商っている女性で、当日は復活祭前日で店を休んでいました。覗き込むと店の裏に居たので、ゾロゾロと入りこんで話しを聞きました。と言っても言葉はわからないのですが、何かジョイさんに訴えている感じで、彼女は冷静に根気強く話しを聞いてあげていました。PSHFの医療援助を受けて手術を受けたばかりのお姉さんもいて、3人の話は延々と続きました。子供を連れた夫が、鶏肉の入ったビニール袋をぶら下げて帰ってきたので、私たちも引き上げてきました。

今回のツアーは、リチャード・フォスターさんの始めたPSHFの小ビジネス向けのマイクロ・ローン(小規模融資)を理解するのに本当に役立ちました。WFFの理事会では、送付された申請書と申請者の写真で支援するかどうかを考えるのですが、行ったこともない、見たこともない所は想像するのも難しかったのです。典型的な受益家族の一日の収入が500円といわれてもピンとこなかったのです。これからはプロジェクトの内容や金額の妥当性が、よりリアルに理解できます。そして、その援助の大変さも目の当たりにしました。少額とはいえ、事前に何度も話しを聞き、家族の状況から、その小ビジネスの妥当性を見、契約を交わし、毎月の集金やコンサルタントと、バーニーさんやジョイさんの苦労がやりがいと共に少しは理解できました。

新聞によると、フィリピンの問題は「貧困」と「貧富の差」と書かれています。貧困を肌で感じたのは、ネグロス島のプロジェクト訪問の帰りに寄ったミランダグループでした。バーニーさんによるとネグロス島では、すでに電気がすべて引かれたと聞いたのに、その村ではランタンが用いられていました。明るいのはその明かりのほんのまわりだけで、あとは全くの闇です。その闇の中で、満足な治療もできずに子供を亡くし呆然と立ちすくむ父親の姿は、本当に痛ましくその悲しさが伝わってきました。ローンだけでなく助成金の必要を知りました。

今回のスタディーツアーで、たくさんの家庭、家族に接して印象的だったことは、「ここでも 一生懸命働いて 生きている人がいる」ということです。気候から生活環境、収入レベルと何もかも全く異なるのですが、毎日それぞれの状況のなかで悪戦苦闘しながら、日々を重ねていることを目の当たりにすることができました。マイクロローンを受けて、どうにか生活の質を向上させよう、子供を学校に行かせよう、栄養のあるものを食べさせようとする姿は、経済的には恵まれている私たちの心を打ちました。私たちもそれぞれの場で、十二分に生きようと、元気をもって帰ってきました。

★ マニラにて    栗林尚子

・(第5日目)

4月13日、今日はGood Friday。ホーリーウィーク(Holly Week)に、国民の大半がカソリック教徒であるフィリピンを初めて訪れることになったのも、何か見えない大きな意図に導かれているような気がする。私とフィリピンとの関わりが始まったのは、もうずいぶん前のことになる。その頃、一人娘の朋子は大きくなり、リカちゃん人形やキティちゃんなどのおもちゃと遊ぶこともなくなっていた。ちょうど、手元に届いた中学・高校の同窓会便りの、ある記事が目に止まった。古着や文房具をフィリピンに送っている同窓生が協力を呼びかける記事であった。娘にとっては不要なったおもちゃを役立てることはできないだろうか。娘が大事にしていたお人形たちは、まだまだきれいで愛らしかった。娘の了解をとり、私はおもちゃをひとつひとつきれいにして、フィリピンに送った。やがて、フィリピンで貧困層の人々のために活動しているシスター リリアからお返事が届いた。「あなたが贈ってくれなければ、一生おもちゃを手にすることはできなかった子供たちの嬉しそうな笑顔を見てほしい。いつか、フィリピンに来てください。」それ以来、折りにふれ、私は古着や文房具をこのシスターさんに送り続けている。今回、WFFのスタディツアーに参加したのを機会に、シスター リリアを訪ねることにした。

前置きが長くなったが、今日は他のツアーメンバーと別れて、私は1人でセブからマニラに向かった。マニラ空港では、シスター リリアが笑顔で迎えてくれた。それからちょうど同じ日に日本に帰るフォスターさんも私を待っていてくれた。1人で旅する私の身を案じてくれたのに違いない。さすが、イギリス紳士である。

さて、この日は、タガンタイというマニラ郊外の高級リゾート地にある別荘に泊まった。別荘の持ち主はシスター リリアをサポートするお金持ちのフィリピン人である。今まで、ネグロス島、ボホール島、オランゴ島のいくつかのプロジェクトを訪ねて来たが、そこで暮らす人々の貧しさと、この高級リゾート地で休日を満喫する人々の豊かさ - その気の遠くなるような落差に割り切れない思いがした。シスター リリアは77歳だが、とても元気で活発である。ただただ慈悲深いだけでなく、政治的手腕 もなかなかである。 多くのお金持ちのサポートを得て、貧困層の人々の自立を助けている。フィリピンの貧困に立ち向かうには、シスター リリアのような優しさと強さとしたたかさが必要なのだと思った。

・(第6日目)

タガンタイからマニラへ向かう途中で、シスター リリアが所属する修道会に立ち寄った。修道会の厨房で働く貧しい人々の何人かは、私が贈った古着のRecipientだということで、私は彼らに紹介された。彼らが作ってくれた昼食はとてもおいしかった。  マニラに着くと、いわゆるスクワッター(不法占拠者)のスラムを案内してもらった。鉄道の線路脇のわずかな土地、川の土手、橋の下にゴミ同然のスクラップで作った家に住む人々。水も電気もない。汚物も処理できない。線路で遊ぶ子供たちが鉄道事故に遭うことも珍しくないそうだ。地方で仕事を見つけられない人々が都会にでてくる。都会でも仕事がない。ならば、どこに仕事があるのだろうか。自立するためには、生きる糧を得るための仕事が必要だ。シスター リリアは、スラムで子供を育てる母親たちにミシンの使い方を教え、古着を再生して売っている。自立の道を教えている。アル中の父親たちが多く、働き者は女性であった。

今日も、やはり、シスター リリアをサポートする中国系のお金持ちの家にお世話になった。私が泊めていただいた部屋は3LDKのマンションを1部屋にしたような広さで、その広さと豪華な調度品とキングサイズのベッドに驚かされた。ここでも、富みと貧困の差の大きさに言うべき言葉がなかった。

フィリピンの現実を目の当たりにすると、自分が無力であり、何もできないような気持ちになってしまう。けれど、シスター リリアをはじめ、フィリピンの人々のフレンドリーな笑顔に触れると、そんな気持ちも吹っ飛んでしまう。小さな1歩でも、歩き出さなければ、前には進めないのだから。

・(第7日目)

シスター リリアが私をマニラ空港まで送ってくれた。ハグハグして笑顔で別れた。空港内で他のツアーメンバーたちと再会。飛行機の出発は大幅に遅れたが、無事に日本に到着。今回の旅は良きメンバーにも恵まれ、貴重な経験をすることができた。今回の旅を企画してくれたWFFとフォスターさんに感謝。重いカメラを担いで同行してくれた浅尾氏に感謝。楽しいメンバーの公子さん、治子さん、やよいさんに感謝。そして、何よりも思い出深い旅にしてくれたフィリピンの人々に感謝。